シャイイの宿での事故後のモネ (Monet After His Accident at the Inn of Chailly)
フレデリック・バジール 1865年
キャンバスに油彩 65 x 47 cm
オルセー美術館 パリ
「草上の昼食」のモデルに呼んだはずのバジールに逆に
モデルにされ、足を骨折しベッドで横になっているモネです。気の毒ですが、事の経緯を知ると、モネは何とも分の悪そうな顔をしており、ユーモアを感じてしまいます。
グレールのアトリエで知り合った二人は、ほぼ同年齢ということもあり、親密な間柄でした。下記の年譜を見ると、モネ、ルノアールはバジールがいなかったら、「画家を諦めてしまっていたのではないか。」と思えてくるぐらい、経済的に二人を援助しています。
両親に当てた手紙からは、二人の才能あふれる画家から様々なことを学び、有意義で楽しい共同生活を送っている様子が伺えます。推測ですが、バジールには先見の明があり、この二人の画家の大成に微塵の疑いも持ってなかったのでしょう。
バジールは1841年、フランス南部のモンペリエでワイン製造を営む名家に生を受けます。1962年に父の勧めで医者になるべくバリに赴き、同地で医学を学びながら、グレールの画塾にも通いました。しかし、1864年に医学の試験に失敗(死体の解剖が苦手だったようです。)し、画家になる決意を固めました。
「バジール関連のモネの年譜」
1862年秋の終わり グレールのアトリエに入り、バジール、ルノアール、シスレーらと知り合う。1863年4月 復活祭の休暇にバジール、ルノアール、シスレーを誘って、シャイイで過ごし、戸外で風景画を制作する。
1864年5月下旬 オンフルールでブーダン、ヨンキント、バジールと共に制作する。
1865年1月21日 バジールは金銭的に切迫していたモネと共同でアトリエを借りる。
1865年春~夏 大半をシャイイで過ごし、8月にバジールをモデルとして迎え、「草上の昼食」を手がける。この作品の製作途中にクールベの訪問を受け、以来、巨匠と新進の画家との交流が絶えることはなかった。
1867年2月 オンフルールを離れ、パリのヴィスコンティ街に住むバジールの所に、ルノワールとともにしばらく身を寄せる。
1867年3月 「庭の女たち」と「オンフルールの港」をサロンに出品するが、2点とも落選する。バジール、ルノアール、シスレー、ピサロらも同様の結果となり、憤慨した彼らは独自の展覧会を開くことを計画するも資金不足で頓挫する。
モネの生活の困窮を見かねたバジールはサロンで落選した「庭の女たち」を2,500フランという破格の値段で買取り、月々50フランの分割で支払う約束をした。
1870年7月19日 普仏戦争が勃発。バジールは従軍し、11月18日に戦死する(享年29才)。
家族の集い (Réunion de famille)
フレデリック・バジール 1867年
キャンバスに油彩 227 x 152 cm
オルセー美術館 パリ
本作は、バジール家一族がモンエリペ郊外の屋敷に集う様子を、集団肖像画として戸外制作するという試みで描かれています。遠景には南仏の陽光を浴びるぶどう畑が広がり、木陰の下で、たたずむ一族が作者独特の色彩感覚で写実的に描かれています。
バジールが画家になることをあまり快く思っていない父親(画面左端)の隣にはバジール本人が描かれています。画面からは厳粛な雰囲気を感じますが、人々の表情や仕草などから、観るものは様々な想像を働かせることが出来、とても面白い作品です。
同士であるモネやルノアールとは別の表現方式で描かれた本作品は、サロンに出品され、入選を果たします。
キャステルノー=ル=レズの村の眺め (Vue de village Castelnau-le-Laz)
フレデリック・バジール 1868年
キャンバスに油彩 89 x 130 cm
ファーブル美術館 モリエンペ
私がバジールの絵の中で一番好きな絵です。少女の衣装は繊細な色彩感覚描きこまれ、腰帯と髪結いの鮮やかな紅橙色と背景の草木の緑色とのコントラストが作品全体に活気を与えています。
遠景のキャステルノー=ル=レズの村は明るい簡素化されたタッチで描かれ、写実的に描かれてた少女を引き立て、同時に奥行きと清涼感を与えています。
本作品は、印象派初期の戸外制作で描かれた肖像画の代表的作品として位置づけられています。
ラ・コンダミス街のバジールのアトリエ (L'Atelier de Bazille, rue de la Condamine)
フレデリック・バジール 1867年
キャンバスに油彩 128 x 98 cm
オルセー美術館 パリ
壁は白く塗られ、画面右下のグレーの床は広く描かれており、明るく斬新なの空間認識を感じます。人物の配置は閑散としていて、「何気なくとった写真の一枚」というような感想を絵全体から受けます。
画面中央の長身の男が自作を披露するバジール本人(マネが描いたことが分かっている。)で、その左側の画架の前にいる帽子を被った男がマネです。その左の人物はモネ或いは批評家のザカリ・アストリュックであると言われています。
また画面左の階段では小説家エミール・ゾラ(階段上)とルノワール(階段下)が会話しています。(モネとシスレーとの説もある。)さらに、画面右ではバジールの親友のエドモン・メートルがピアノを弾いています。
本作で大きく扱われている、アトリエの壁に掛けられている絵画は、ルノワールとバジールがサロンで落選の憂き目にあった作品です。またマネとマネ(後に印象派)を擁護する論陣を張っているゾラが描かれていることから、閉鎖的なサロンに対するバジールの憤りを感じます。
マネのように一人で個展を開催するのは無理だが、「グループを作って、無審査の展覧会を行なう。」という計画は、この頃からバジールやモネが中心となって、サロンの旧態然とした構造に不満を持っていた人々と共に、進められていたようです。
しかし、悲劇が起こります。1870年7月19日、普仏戦争が勃発し、バジールはお金を積めば兵役を免れる階級の人でしたが、志願して戦場に赴き、同年11月18日に帰らぬ人となってしまいます。
絵の才能と人望を兼ね備え、将来「印象派」と呼ばれるメンバーの中心にいたバジールの死は、彼の同士たちに深い喪失感を与えたことでしょう。特に仲の良かったモネは訃報を聞いて慟哭したと言われています。
1974年、戦後から3年程の月日が過ぎ、ようやくバジールが思い描いた、後に第一回印象派展と呼ばれることとなる展覧会が開催されました。